言葉ログ#12 "ことばというものにひとは使われているのかもしれません。"
AIを語る文脈でも、「ヒトというのはスーパーAIをつくるためだけに誕生した存在なのでは」という専門家がいたりします。その他にも、小麦やとうもろこしなどの農作物はヒトという存在のため一気に地球表面に広がりましたが、「小麦はその種を拡大するためにヒトを利用した」ということをいう有識者もいます。
ことばについても、同じじゃないかと。
ことばはツールだとよくいわれます。ひとがことばというものを使うのだ、と。けれども、事はむしろ逆で、ことばというものにひとは使われているのかもしれません。ことばとはなにか、ということを一生懸命考えるときに、わたしたちがことばを使ってそれをやっている以上、わたしたちは囚われの身に過ぎないのではないか。
ことばの外に出ることがわたしたちには不可能で、それを外から眺めることがどうしてもできないのだとすれば、頼みはコンピューターにある、というのは特集の冒頭で理論物理学者のマイケル・ニールセンの語るとおりかもしれず、そうまでして、ことばというものの秘密に迫りたいとわたしたちが考えるのは、そこにわたしたちが生きる世界のすべてがきっと含まれているからに違いないのです。(ことばに囚われて)p253
神戸で暮らすことにしました。
こんにちは。
2018年5月末で東京を離れて、神戸に住むことにしました。
4月中にひっそりおうちも決めてきました。陽がたっぷりで広い、住みやすそうなところ。年4回もだんじりをやる地域のようです。
(Find47より。兵庫県・黒滝というところのようです、きれい。)
どんな暮らしになるの?
神戸に行っても、いまの会社に所属したまんまです。神戸からリモートで働いて、たまに東京に来る感じになると思います。大好きな広島カープの本拠地に近くなるので、後半戦はスタジアム観戦にいけるのでは...!!
妻も一緒に関西にいくので、大学のときの皆さんなど仲良くしてください。
そもそもなんでよ?
東京という街以外でも暮らしていけるようになりたいし、ならなきゃいけんなと思ったのが最初です。
--ここからはポエムなので読み飛ばして頂いてOKです--
新卒の時からずっと暮らしてきたのは東京だし、働く上でコミュニケーションをとる人もだいたい「そこそこ同質性の高い都市人」という感じだし、まぁ楽なんですよね。仕事とかの負荷はもちろん高かったりするんですが、「利益あげるべし」「とにかく労働すべし」みたいな同じ前提を職場でも消費・サービスの場でも共有している/されている感じ。一方で、この前提ってそんなに当たり前のものじゃないと最近よく感じます。
コンサル会社で働いているとき、周りにいるのは1を言えば20くらいわかってくれる人たちでかつみんな勝手に死ぬほど働くので、ある種の心地よさがありつつ、とはいえ外に出てみると、そこでしていたコミュニケーションや働き方って「論点ベース」「成果こそすべて」みたいな価値観に基づいたいくぶん偏ったものだったんだと(やっと)気づいて苦労したりしました。それ以来、ハードウェア・ソフトウェアのエンジニアさんやいろんなデザイナーさんと一緒に働いてきて、背景・前提からぜんぜん違う人と働くって(大変だけど)楽しいなぁと感じている日々です。
で、↑みたいなことって、働く企業だけじゃなくて、働く場所についても言えるとおもっていて、東京だけで働いてきた人、あるいはおっきな都市だけで働いている人よりも、地方の工場上がりだったり、東南アジア現法で長らく働いている人が不思議な魅力を持ってると感じること、あると思います。
たしかに、短期的には東京に「雇用」はたくさんあるわけですが、「雇用」と「働く」ってことはイコールではないし、今の会社をクビになったとしてもまぁ何となるだろうと思ったりします。働くってそんなにハードルの高いことだろうか。
"消費"という視点でも"体験"という視点でも"生産"という視点でも、こんだけWebが発達した社会で、リアルな意味での都市が持つ意味は相対的に減っていっていいはずだし、シリコンバレーだったり渋谷だったり、時代の先端を自称する人たちが集まる場所が都市だから、みたいな言説はあるものの、多様性を主張しつつ一枚皮をめくるとやたらと同質性が高くて排他的な空間に私には馴染めないわけです。 スタートアップかくあるべし、みたいなやつも同様です。
プロダクト企画・デザインに関わる身としては、そんな偏った価値観の世界に身を浸していたくないな、と思っています。
さらには、この自然災害多発国・日本で、いつ東京っていう街がばらばらになるかわからないわけですし、この街でしか暮らせないっていうのは単純にリスクだと思ったりもします。
--ポエム以上--
神戸 Why?
- 大学の時に住んでいたのが神戸で妻と出会ったのも神戸なので、もとから大好きな街なこと
- 海も山もあって瀬戸内も近いので、ハッピーに暮らすための自然インフラが整っていること*1
- 医療産業都市としてブランドを立てているので、いい出会いがあるかもなと思ったこと
- 私と似たスキルセット・キャリアバックグラウンドの人は東京・大阪に多そうなので神戸だとよくわからない競争をしなくて良さそうなこと
良さそうじゃん
そうでしょ。やっちゃいましょう。
自分の人生なんだから。自分の人生の運転席には自分が座っているべきで、さらには他人や会社の人生の運転席には別の人が座っているんだから、変な責任感など捨てて。
ピーター・ティールも言ってました。
きみは自分の人生の起業家である:自分の人生に優先順位をつけるのはきみだ。
自分の人生をどうやってはじめるのかという根本的な決定を下す自由は、きみの手の中にある。
(トーマス・ラッポルト『ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望』より)
関係各位に業務連絡
- 「ちょっと話しましょう」みたいなのはOnline/Chatになると思うのでご容赦ください
- 月1~2回は東京にも来るので、そのときにはお茶でもいきましょう
- 神戸にお越しの際にはぜひぜひお知らせください(応えられなかったらごめんなさい
身勝手なお願い
引っ越し初期費用でお財布が空になってしまった我が家にぜひご支援のほど。。いつかかならず恩返しさせていただきますゆえ。
*1:妻と一緒に自転車で瀬戸内をわたるのが喫緊のお楽しみごとのひとつ
言葉ログ#11 "世間は「競争」というものを過大評価しすぎているのです"
WIRED元編集長・若林さんがピーター・ティールにインタビューした時の記事から。
利害が一致しているからこそ争う。そんな競争からは、抜け出なくてはいけない。
「人が争いあうのは、大概の場合、利害が一致しないからではなく、それが一致しているからなんです。二人の人間があるポストを巡って争っているとしたら、ふたりの欲求が一致しているからで、そういう争いは極力避けるべきです。世間は「競争」というものを過大評価しすぎているのです」
そうとまでわかったところで、ぼくは、しかし、本当はもう一つ聞いてみたいことがあった。世間を徹底的に懐疑しながら、返す刀で自分自身をも懐疑し、その上で、自分をとことんまで信じ続けられることがイノヴェイターの資質であるというのなら、イノヴェイターって、とんでもなく孤独なんじゃないだろうか?
その質問を投げかける時間は、残念ながら、なかった。
ティールは果たしてどう答えたろう。少なくともぼくが見たティールは、孤独を正しく愛することのできる、そういう類の大人だった。(戦うなとティールはいった)p236-238
競争しなくとも、泰然と孤独を愛せる、素敵な大人に。
言葉ログ#10 "新しい思考をもたらす媒介としてのコーヒー/カフェをいま以上に望むことになる"
コーヒーハウスやカフェは、新しいアイディアをやり取りし議論する場所として機能してきた。アイディアの媒介としてのコーヒー。
デジタルテクノロジーがあらゆる人の手にわたっていくなかで、社会を革新していく主体は、国家、大学、大企業と言った大組織から、個人、もしくは小さな組織へと着実に移りつつある。そのとき、新しい思考をもたらす媒介としてのコーヒー/カフェをいま以上に望むことになるのだとすれば、そこでみなが求めるのは、産業化されたコーヒーチェーンではないはずだ。ニューヨークのインディペンデントなカフェの数は、既に大手チェーンの店舗数を上回っている。そんなことを教えてくれたのはスクエアのジャック・ドーシーだった。(フレッシュコーヒー・マニフェスト)p146
神戸でも、語り合えるいいカフェを見つけて出入りしよう。
言葉ログ#9 "未来を切り開くことと「自分が心を動かされたなにか」を継承し伝えること"
話していて何の面白みもない人から、面白いプロダクトなんか生まれてこないわけで。
自分になんの感動の体験もない人間が、もっともらしく「ユーザー・エクスペリエンス」を語り、数字しかあてにできない人間がしたり顔で「顧客満足」を論ずる。それによっていかに多くの現場がモチベーションを奪われ、クリエイティビティが削がれ、結果どれだけ多くのリスナーが離れていったことだろう。そりゃそうだ。そんな連中が作ったものに一体誰が感動なんかするもんか。
人を動かす新しい体験をつくろうとするとき、人は「動かされた自分」の体験を基準にしてしか、それをつくることはできない。未来を切り開くことと「自分が心を動かされたなにか」を継承し伝えることは同義だろう、とぼくは思っている。(アー・ユー・エクスペリエンスト?)p92
遊びがビジネスをつくるし、遊びがプロダクトをつくる。
仕事ばっかりの人は、単なるオペレーションマンへの道を歩んでる。
言葉ログ#8 "自分のハッピーは自分で決めるものであって、社会や会社に決めてもらうものではない"
他人にできるのは不幸せから救うところまでで、幸せになれるかどうかは本人の責任。
中産階級はあらゆることに不満を持つ人々だ、というのをどこかで聞いたけど、自分が幸せでない理由を自分以外に求めているうちは、ずっと幸せになれないのかも知れない。
彼女に伝えたいことがあったとすれば、自分のハッピーは自分で決めるものであって、社会や会社に決めてもらうものではない、ということだったのだと思う。それは日々働くなかで自分に問い返していくしかないようなもので、かくいう自分にしたって「なんでオレこんな事やってるんだっけ?」という問いにいまだまともな答えひとつ用意できずにいる。
答えのない問いだとは感じつつ、それでも問うことをやめないのは、やめた途端に成長は止まり、後退が始まるだろうと思うからだ。ぼくは、そのことをかつてハッピーだった大企業が苦しんでいるさまを見てことさら痛感する。日々問い返すことを怠った結果としての現状であるならば、日本企業のつまずきは働く人全てにとって未来の教訓になりうる。自分の「ハッピー」を人に委ねて、外から与えられるのを安閑と待っているわけにはいかない。人も会社も、そうだ。誰がいったいゆとり女子を笑えるというのか。(ゆとり女子を笑うな) p72
心理学や組織論でよく用いられる、ハーズバーグの動機づけ・衛生理論でも、人間が仕事に満足感を感じる要因と不満足を感じる要因は全く別物であるとしています。
生きることも一緒で、他人にできるのは不満足を取り除くところまでで、満足するかはどうか結局本人次第なんだと思うわけです。
言葉ログ#7 "ぼくらは無駄に「日本」というものを意識しすぎているのかもしれない"
日本の課題、日本再興戦略、みたいな話を聞くと、わたしは辟易としてしまう。
国とか、企業とか、地域とか、そんな虚構の話をする前に、自分という個人をじっと見つめて、問いと答えを提示していくことを優先すべきだと思う。
そもそも、ぼくらは無駄に「日本」というものを意識しすぎているのかもしれない。「日本人、ここにあり」なんていまさら気張られても、世界的にはおそらく何のことやらな話だ。人が気にするのは最終的には「あんた、なにができるの?なにやりたいの?」でしかないはずで、グローバル市場というのは、ことさらそういう場所だろう。
取材先で訪れたパリでは、いま日本人シェフのいるレストランが人気なのだという。なにも日本食に限った話でもないようで、フレンチでもスーシェフが日本人である店にお客さんが集まっていると聞いた。そういう行き方もあるのだ。「日本人の強み」なんて抽象論に時間を割くよりも、世界を舞台に勝負できる「自分の強み」が何であるのかをより現実的に見極めることのほうがいまは有意義なはずだ。それが見えれば、自分がどこで誰に求められているのかもはっきりするはずで、となれば「業界」や「経済」がどうなろうと、少なくとも自分は生きていける。頼まれもしないうちから日本を背負わずとも、まずはそれでよしとしたらいいのではないだろうか。 (寿司でいくか、ハンバーガーでいくか)p62
大上段に構えずに、自分は何がしたくて、なにができて、それを問わなくてはいけない。