言葉ログ#13 "経済にしか興味がない社会では、教育空間は、利潤を生むための部品を作る工場でしかない。"
教育論=こどもに何をどうプログラミングするか、ということなんだろうか。
切に、そうではないことを祈る。
学校ってのは、実際、経済的な指標でしか評価をされない、とても残念な空間なのかもしれない。かつてもそうだったし、いまでもそうなのだろう。経済にしか興味がない社会では、教育空間は、利潤を生むための部品を作る工場でしかない。より有能な部品とするために、子どもたちにいまなにをプログラミングすべきか、という議論に喜んで参加する気にはどうしてもなれない。やれ英語だ、やれプログラミングだ、やれICTだ、やれファブだ。お好きにどうぞ。
いずれにせよ、学校というもののこうした「残念さ」は、社会そのものの「残念さ」の反映にほかならない。学校における生徒の評価は、そのまま社会における「人材」の評価と直結している。そして、この社会における「いい人材」は、いまなお程度の差こそあれ、結局のところ「お金」という指標でしか定量化されない。子どもに「なぜ勉強しなきゃいけないの?」と聞かれても、あらゆることを数字でしか測れない社会は、ろくな答えをだすことができないだろう。(音楽からぼくらは勇気を学ぶ) p279
本来は社会の一部分でしかないはずの経済が、社会そのものを覆ってしまっている現代に。残念な社会にしない責任は、私たち全員にあるはずだ。